離婚理由に多いといわれる「 価値観の違い 」。当事者の苦悩とは裏腹に「そんなことで 別れ るだなんて我慢が足りない」という外野の声があるのも事実です。けれども本当に「そんなこと」なのでしょうか。
「価値観の違い」の正体を探っていきます。
価値観の違いで夫婦が別れるということ
外野の声
価値観の違いで離婚すると言うと「それぐらいで離婚するのか」「みんな我慢している」「価値観なんて違って当たり前」という外野の声を少なからず聞くことがあります。
当事者にとっては耐え難い問題であったからこそ離婚という決断に至ったわけで気にすることはないとはいえ、その外野の声によって「価値観の違いで離婚することはあまりないことなのか」「もしかしたら自分たちは間違っているのではないか」と悩む人が多いのも事実です。
このような外野の声を余計なお世話と笑い飛ばせる人はむしろ少数で、離婚という事実にただでさえ心身ともに疲弊している人には想像以上にダメージが大きいものです。
では、なぜこのような外野の声が生まれ、そして傷つかなければならないのでしょうか。そこには「価値観の違い」という名前の、別の正体があるからだと考えてみましょう。
価値観の違いとは
たとえば満天の星空を見てその美しさに感動して涙を流す人がいたとします。価値観が同じ人は、その星空を見てその人と同じように美しさに涙を流します。そうでなければ価値観が違うと言えるでしょう。ただし価値観が違うと言ってもここから二つに分かれます。
一つは共感や理解、そしてもう一つは無理解です。相手の価値観に同感できなくても、共感あるいは理解をできるかどうかが鍵を握ります。共感あるいは理解をする人は、その星空に涙を流さなくても、目の前の人が星空に涙を流していることに理解を示します。
何かほかのものに対し美しいと感動して涙を流すことがあるのかもしれませんし、そうでないとしても、「この人はこの星空を見て涙を流している」という事実を認識し、その価値観を決して否定しません。
一方無理解の人は、どうして目の前の人が涙を流しているのか理解しようとしません。自分の価値観から外れていることは、その存在すら認めようとしません。(もしかしたら空に星が出ていることにも気付かずに)「空を見て涙を流すなんて、おかしいのではないか」としか思うことができません。
理解しようとしないので「なぜ空を見て泣いているのか」を考えることもありません。このように、価値観が違うと言っても、共感あるいは理解をする人と、無理解の人とでは、まったくその意味合いは異なります。
実は離婚理由である「価値観の違い」の正体はここにあります。
本当は何が問題なのか
冒頭で述べた外野の声が当事者を苦しめるのは、「価値観の違い」という言葉の意味合いにあります。外野だけではなく当事者ですら「価値観の違い」をそのままの意味で捉えてしまい「そんなことで」と考えますが、本当は価値観が違うことそのものが問題ではないのです。
価値観が違うことに対する無理解こそが問題なのです。二人の人間が結婚するとき、お互いを尊重し合い、共に生きていくと決心するでしょう。
しかし価値観の違いで離婚する、それは共有する時間や空間が増える中でお互いにズレが生じ、「相手を尊重できなくなってしまった」ということではないでしょうか。
同じものに同じ価値を見出せる、同じものを見て同じように感じられるに越したことはありませんが、世の中一人として同じ人間はいないのですから、価値観が違うのは当然とも言えるでしょう。
それでもお互いを尊重することで「価値観の違い」は「二つの価値観の発見」という新たな価値を生みます。
ですから価値観の違いが夫婦関係にとって崩壊の原因とはなり得ません。そこには、ただ一つ、相手を尊重できないことによる「無理解」があるだけなのです。
最後に
離婚問題の最中にいると、考えなければならないこと、やらなければならないことが多すぎて自分の心身がついていかないことがあります。しかし離婚は人生の大きな選択です。それを間違った選択にするのか、幸せな選択にするのかはやはり当事者でしかありません。
自分の心の中に引っかかるものがあるときは、一度立ち止まってその本質を見つめてみましょう。そうすることで、きっと見えてくるものがあるはずです。
まとめ
価値観の違いで夫婦が別れるということ
外野の声
価値観の違いとは
本当は何が問題なのか
最後に